目次
中国の医学
中国の医書-三大古典
中国医学の三大古典といわれる『黄帝内経』『神農本草経』『傷寒論』の3書が漢代(紀元前202 〜後220)に成立しました。
これら三大古典は,いまもって中国伝統医学の最重要書として不動の地位を保っている。
『黄帝内経』
『黄帝内経』は春秋戦国以来の医学論文を綴り合わせたものであり,一人の作者によるものではなく, 編集者や編集年も明らかではありません。
現在伝わる『黄帝内経』は『素問』と『霊柩』という二つの書からなり,『素問』には生理,衛生, 病理などの基礎医学が,また『霊枢』には診断,治療術などの臨床医学が中心に論じられている。この『黄帝内経』に一貫して流れる理論基盤は,陽五行説という中国独自の哲学思想です。
『神農本草経』
『神農本草経』は個々の生薬の効果について述べた薬物学書である(中国では薬物学のことを本草学と言った)。
書名に冠される神農は伝説上の帝王で 農耕、医薬、商業の神とされます。『神農本草経』には365種の動植物、鉱物薬が薬力別に上薬(120種),中薬(120種),下薬(125種) の3ランクに分類して収載されています。
『傷寒論』と『金匱要略』
『傷寒論』と『金匱要略』は『傷寒雑病論』 と総称され,3世紀初めに張辟景が著したとされます。この2書は,漢方の湯液(生薬処方)濟法における古典として今日まで最高の評価を得ている。
『傷寒論』は腸チフス様の“傷寒”という急性熱性病の病態と治療を論じた書です。傷寒の病態を, 太陽病,陽明病,少陽病,太陰病,少陰病,陰病 という六つのステージいわゆる病期に分類し,それぞれの病期の病態と,適応処方を説き記しています。
『金匱要略』は傷寒に対し”雑病”,すなわち種々の慢性病や雑病の治法を全部で25編にわたって論じた書です。循環器障害,呼吸器障害,泌尿器障害,消化器障害,皮膚科疾患,婦人科疾患から精神疾患,そして救急療法まで,あらゆる分野の疾病の治療に及んでいる。
中国の漢方の歴史
唐代までにも数多くの医書が著されたが,基本的には前述の三大古典の延長線上にある。
唐代の代表的民書には『金千方』などがあります。宋代には『太平聖恵方』、『聖剤総録』、『和剤局方』といった医学書、処方集があり,とくに『和剤局方』には今日でもよく用いられる漢方処方が載せられている。
金元代には革新的な医学理論の展開運動がなされ,劉完素,張子和,某苒蓮の金元四大家に代表される学医が登場しました。彼らはその治療方針の考え方の特徴から,それぞれ、寒涼派,攻下派、補土派,養陰派と称された。金元医学理論は後代に引き継がれ,現代中医学理論の基盤を形成しました。
明清代にも金元の流れを受けた医書が多く世に出た。明代の薬物書の代表には『本草綱目』,処方集では日本の漢方医学に大きな影響を与えた『万病回春』などがあります。清代には温病学という新しい医学理論も展開された。これも中医学理論の—角をなしています。
中華民国を経て,中華人民共和国が成立してから, 政府の指導で従来の伝統医学理論の整理統合がはかられ,その結果,一般に中医学理論と呼ばれる体系が作られた。しかし,完全に統合されたわけではなく,中国にもさまざまの流派があります。
日本における漢方の歴史
平安時代以前の漢方
日本における大陸文化の導入は,6世紀頃までは主に朝鮮半島経由で行われていた。医薬書の伝来も仏教伝来と時を同じくしました。
7世紀以降,遣隋使・遣唐使による中国との正式交流開始に伴い,医学文化が直接,大量に輸入されるようになった。
701年には大宝律令が施行され,医制を定めた医疾令には医学の教科書に漢〜六朝の中国医書が指定され学習された。
平安時代には日本独自の文化意識が芽生え,日本でも医学書が編纂されるようになった。9世紀には 『大同類聚方』、『金蘭方』が編纂されたが失伝しました。
日本現存最古の医書『医心方』
984年には日本現存最古の医書『医心方』が編纂され,朝廷に献上された。本書は全30巻からなる一大医学全書で,宮廷医学の秘典となった。撰者は帰化中国人の子孫,丹波康頼です。
この『医心方』は平安時代における隋唐医学の集大成であり,中国医学受容の精華です。そこに使われた資料のほとんどは中国からの輸入医書であるが,その取捨選択には日本の風土,嗜好が反映されています。
鎌倉・南北朝時代
鎌倉時代になると,日宋貿易を背景に中国より宋の医学書が伝えられた。武士の時代にあって,医学の新しい担い手は従来の貴族社会の宮廷医から禅宗の僧医たちへと移行し,医療の対象は貴族中心から一般民衆へも向けられるようになった。
鎌倉時代に僧医によって作られた『頓医抄』『万安方』や,南北朝時代の『福田方』はこの時代の特徴をよく反映した医学全書と言える。
従来の日本の医書は,中国医書から漢文のまま忠実に抜粋したものであったが,『頓医抄』や『福田方』は新渡来の多くの医書を駆使しつつも和文に直して咀嚼され,しかも筆者独自の見解が随所に加えられている。
室町時代〜江戸時代前期
室町時代には明朝となった中国との交流が活発になり,明に留学し帰朝した医師たちが医学界をリ一ドするようになります。彼らは当時最新の明医学を盛んに導入し普及につとめた。その代表が田代三喜です。
1528年,日本ではじめて医学書が印刷出版された。それは明の宗立の編纂した『医書大全』を復刻したもので,医書の印刷出版は中国に後れること500年であった。
さらに70年後,豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵によって,朝鮮から活字印刷の技術が伝えられ,これによって金元明を中心とした多量の医薬書が出版,広く普及するようになった。
室町末期から安土桃山時代に活躍した名医に曲直瀬道山がいる。田代三喜に医を学び,宋金元明の医書を独自の手法によって整理し,『啓迪集』をはじめとする多くの医書を著述し,後輩の 啓蒙育成に尽力しました。道三の医学理論は明の医書を介するところの金元医学に依拠し,江戸前期にはもっとも隆盛をきわめ,中期を経て末期に及んだ。 この流派を,その後に興った古方派に対して,後世方派と称しています。
江戸時代中期〜後期
17世紀後半,江戸中期以降の日本漢方界は,『傷寒論』を最大評価し,そこに医学の理想を求めようとする流派によって体勢が占められるようになった。
吉益東洞
漢代に作られた『傷寒論』の精神に帰れと説くこの学派を古方派と呼ぶ。この古方派に属する人々として,名古屋玄医、後藤艮山、香川修庵、吉益東洞などの名医がいるが,吉益東洞はなかでも最もきわだった考えをもった医家であった。
東洞は,病気はすべて一つの毒に由来し,その毒の所在によって種々の病態が発現するのだと説(万病一毒説)。また,薬というものはすべて毒である,毒をもって毒を制するのだと主張し,いきおい 治療は攻撃的なものとなった。
『類聚方』や『薬徴』 を編述し,現代の日本漢方に絶大な影響を及ぼすこととなった。東洞の嗣子,吉益南涯は,父の過激ともいえる医説を修正する方向に向かい,気血水学説を立てて病理と治療の説明を行った。この南涯の医説もまた現代漢方に大きな影響を与えている。
折衷派
古方派が極端な主義に走ったこともあって,処方の有用性を第一義とし,臨床に役立つものなら学派を問わず良所を享受するという柔軟な姿勢をとる人々(折衷派)も現れた。
折衷派の代表人物である和田東郭は,今日でもその臨床手腕が高く評価されています。蘭学との折衷をはかった華岡青洲は,生薬による麻酔剤を開発し,世界初の乳癌摘出手術に成功を収めた。
幕末から明治初期に活躍した浅田宗伯も折衷派に属し,その常用処方を解説した 『芴義誠谳方函』、『笏誤薬室方函ロ訣』は現在汎用される漢方処方の直接の出典となっています。
江戸後期には,従来の身勝手な文献解釈に対する批判,反省のもとに考証学派という学派も興り,幕末に頂点をきわめた。その中心は多紀元簡、元堅父子をはじめとする江戸医学館の人々であった。
考証学派は漢方古典を文献学的、客観的に解明,整理しようとするもので,その業績は明治以降,本家の中国に紹介され,今日でも高い評価を受けている。
明治時代〜現代
明治時代となってから,西洋化、富国強兵をめざす新政府は,漢方医学廃絶の方針を選択しました。
1895年,第8帝国議会において漢医継続願が否決され, 漢方は極端に衰退しました。しかし,ごく一部の人々によって民間レベルで伝えられた漢方は,和田啓十郎の『医界之鉄椎』,さらに湯本求真の『皇漢医学』などの著述が引き金の一つとなって,昭和になって次第に脚光を浴びるようになった。
そして,戦前戦後を通じて活躍した奧田謙蔵,大塚敬節,細野史郎,矢数道明ら先人の努力によって今日では完全に復権を果たし,現代医療の中で生かされています。
1950年には日本東洋医学会が設立。1970年代からは,大学や公的研究機関に漢方医学の研究診療部門があいついで開設され,漢方の科学的研究も各方面の学会において多数発表されるようになった。
1976年には多くの漢方エキス剤が薬価基準に収載され,健康保険医療に導入された。さらに1991年には社団法人日本東洋医学会が日本医学会の加盟学会となった。
今日では70%以上の医師が診療に漢方を用いている。まさに日本のみの特徴であるが医師の免許で西洋医学も漢方も自由に用いることができるのです。